昭和四十五年六月三日 朝の御理解


御理解第七十一節 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」


 おかげはわがうちで受けよと、信心そしておかげとすぐ考えたがるところですけれども、そうではないのですよね。それ前に、ここへは信心の稽古に通うて来る所と、その信心の稽古さえ出来ておればね、おかげはいつでも受けられる状態が出来ておる、又出来ておらねばならんというのである。夜、夜中どういう突発的な事を起きらんと限らん。そういう時に日頃信心させて頂いておりますと、そのような時にでもです、おかげを取り逃がす事のない、おかげをおかげとしてキャッチ出来れる状態が日頃、稽古によって鍛えられておるというのである。ですから信心おかげではなくてね、神信心という事は、いわゆる信心の稽古という事が、いわば重点であり、いうならそれが全てでなからなければならん訳ですね。だから、段々信心の稽古をさせて頂いておるとお互いがどのような風に変わらせて頂けるかどのような風におかげの受けられる状態というものが出来上がっていくかと云うとね、これがまぁいうならば、信心の要諦とでも申しましょうか。茶の間に千涯さんのカレンダーが掛かっておりますが、六月のところに植物ですね、「よし」とか「葦」とかがありましょ。水際にできるものですね。その「よし、葦」の絵が書いてあって、そのよし葦を善悪という事にひっかけて、千涯さん独特のいわゆる信心者の要諦とも思われるような言葉が書いてある訳ですね。それにこんなに書いてある。「善悪(よしあし)の中を流るる清水かな」。
 金光様の御信心は、全くこういう心の状態と云うか、こういう在り方というものをですね、身に付けていく事だろうと思う。善いの悪いのじゃない。只、自分自身が清らかな清水のようにそこを只、流れに流れておればいいのである。いうならば善悪はもう神様に任せてある。あれが善いのこれが悪いのなんて云う事じゃない。親子関係の場合でも親が悪い、子が云う事を聞かんと云うのじゃない。どうぞ子供がよくなりますようにじゃない。私自身が自分自身がその善悪の中を清く流れていくという事。これはもう宗教者の、私は信心を極めていこうとする者のこれは要諦。自分自身がそうではなくて、善の方にかたむいたり、悪の方へかたむいたり、善いの悪いのと云うておる間はです、まだ本当なものじゃないんだと、まず知らなければならない。ここには、信心の稽古に通うて来る所と、信心の稽古に通うて来るという事はね、自分の心の中から、こういうものがあってはおかげが受けられんというその心を取り除いていく事なんです。その取り除く事に精進させて頂きよると、こういう事になってくる。
 今日私は、御神前で植物のしだあの『しだが密生しておるところ』を頂くのです。ですからまぁしだというのは、御理解に死田と、いうなら不毛の地というような意味合いで御理解頂きます。心が冷たい、心が汚い、心が悪で固まっておる。まるきりコンクリートのようである。どんなにお恵みのお水をまいても、染み込もうともしない。それを自分では気が付かないでおるというような人達。死んだ田、いわゆる不毛の地にどんな良い種をまいてもね、発芽しない。勿論、花も咲かない、実も実らない。いうならばそれはどういう事かと云うと、どんなに例えば肥料を施しても、良い種をまきましても、心の中に喜びの花が咲かないという事なんです。そして御理解七十一節を今日頂きましたが、結局信心とはね、私共の心の中にあるおかげの受けられない要素、いうならば神様がお嫌いになる心、そういうものをね、もう徹底、そういう所に取り組んで、それを改まっていくという事以外にはないのです。
 ここには信心の稽古に来る所と様々な所を、いわゆる信心の知識とでも申しましょうか。それも人間の知恵やら力やらではとても分かりそうにもないような、いわゆる信心させて頂く者には、どうでも必要な知識を学ばせて頂く訳です。その信心の知識を学ばせて頂いておると、結局はどういう事になるかと云うと、神様に喜んで頂ける私にならせて頂こうと、いわゆる「今日もどうぞあなたのお心に適う一日でありますように」という切願です、切なる願いというものを持ち続ける事なんです。信心者の信心生活というのは、それだとこう思う。商売をさせて頂く者、百姓をさせて頂く者、様々な持ち場立場においてです、寝ても暮れても商売の事を考えておる。勿論そうなんです。けれどもその根底になるものは、今日ここで申しますようにおかげという事ではなくて、夜夜中どういう事が起こってくるか分からん。おかげは我が家で受けよとおっしゃる、その前の信心の稽古に来る所とおっしゃるその信心の稽古をね、させて頂くという事がです、商売なら商売させて頂く者がです、どういうお商売をさせて頂いたら神様が喜んで頂くかと、お客さんが喜んで下さるかという事をね、思い続ける。そこに商売があり、例えて云うならそれぞれの御用があるという訳なんです。そこでそんなら、自分の心の状態というものをです、今自分が思うておる事、今自分が行うておる事、その思うておる事やら行うておる事が果たして御神意に適うかどうか。こんな事じゃ御神意に適うはずはないと悟ったらです、そこへ本気で取り組ませて頂くところに、信心は日々の改まりが第一とおっしゃる事が分かるのです。もう信心はね、私はここへ極まっていると思うのですよ。ですから自分の心の中から、いわゆる死田が無くなっていく訳です。初めの間は自分の心の中には、もうしだがいっぱい。死田というのは、おかげの受けられない心なんです。いかに種をまいても、もう生えない心なんです。それが信心によって、信心の知識を段々身に付けていくに従って心が清ると云うか、改まると云うか、うち耕されると云うか雑草が取り除かれ、そこに肥料が施され、そこに良い種をまかせて頂くという、いわゆる死田が生田になる訳です。おかげの受けられないような状態がです、おかげが受けられる状態になる訳なんです。それをお道では、和賀心と云う訳なんです。心がいつも和らいでおる、喜びに満ち溢れておる、ですからそれ以外のいうならば心というものに取り組んでです、本気で私はそこんところの改まりという事にですね、精進させてもらい、焦点が置かれなければならないと思うんです。
そうしてそこから段々出来上がっていく心の状態というものがです、焦点の中を流るる清水かなという事になるのじゃないでしょうか。ですから誰がええの悪いのと、こういう時代のせいだとか、もう自分以外のところにですねぇ、例えば難儀の元というものを置くような事では、もう全然信心でない事が分かります。例えば善やら悪やらは、いうならば神様へお任せして私だけが清く、そこに流れに流れていけれる状態を作っていくという事。今月今日只今、だから只今を大事にしていくという事に焦点を置く以外にはない。そこんところを私・・・昨日子供達から手紙が参っております。その子供達の各々の生き方の中から、今日私が皆さんに申しております、ここへは信心の稽古に通うて来る所と、稽古の焦点はどこかと、勿論和賀心なのですけれども、善悪の中を流るる清水かなという状態になれれる為の信心の過程というか、こういうようなところに焦点を置かなければならないといった事を聞いて頂こうと思うのです。
 昨日、御祈念が済みましてから光昭がここへ出て参りまして、御承知のように毎日親教会に日参を続けております。それでまぁあの人は、少年少女会の事に命をかけておるとこういう訳なんです。先月は二十五名、会員が増えている。もう自分の力じゃ持てん位な感じがする。これはお取次を頂いて力を頂かにゃ出来る事じゃないと思います。それでもささやかながら修行をさせて頂きたいという訳です。それで親教会の参拝を行き戻り歩かせて頂きたいと思うとこう云う。二里とちょっとでしょうか、往復で・・・ですから向こうで御祈念をさせて頂き、御用でもさせて頂きますと、三時間位かかる訳です。それを聞かせて頂いて私はですね、そげな馬鹿らしい事の修行よりもちっと本当の修行がありはせんかと云いたい思いがちょっと心の中でしたのですよねぇ。それこそ自転車でサーッと参っといてそして余った時間を何かもっと、いうならば便利のよい、もっと分のよい修行でもさせて頂いたがようはないかと思うたですけれども、本人が一生懸命その事を思うているんですからそのままお取次させて頂きました。そして思うのです。もう信心の稽古というものは、又は信心修行というものは、決して只、常識的な事であってはならないという事です。又、自分の頭で考えた利害関係というものは抜きにしなければならないという事。こうした方が便利と。例えば皆さんがこうして朝参りをなさる。同じ参るならば暇の時参ったがいい、一日のうちの一番暇な時に参る。いやお参りはせんでも、おかげはわが家で受けよとおっしゃるから心の中にいつも神様を思うときゃ、家で信心の稽古は出来ると時間もはぶける、お金もかからんというようにです、これはもうそういう理屈の上に立った信心は駄目です。もうどこまでもそれは常識的なものになってしまいます。ですから信心というのは、やはり場合によってはそれは非常識に見えます。けれどもそれは決して非常識ではない。いうならば超常識であり、人間は万物の霊長であるから万物を観て道理に合う信心をせよとおっしゃる事は、人間が作った道理ではなくて、天地の道理に合うた生き方なのだ。だからね割り切った考え方、又はです、自分の頭で考えてこげんした方が便利がいいといったような事を、私は練り出すような事では、信心にはならないという事です。まぁそういう事を例にとりますと、合楽ではいくらもあります。もう本当にこげんした方が便利がようはないですか、こうした方が、いうならば同じ事の中にです、それの方が楽だという常識的という事はたくさんあります。けれども信心の稽古というのはね、やはり普通私共の考えておる常識というものから、それをもうひとつ越えたものでなからなければ五と五を足せば十になるという、これがまぁ数学の原則でしょう。けれども信心の世界というのは、五と五と足してね、五五、二五にもなりゃ百にもなるのが信心なんです。例えて申しますとですね、私が二十何年前です。引き揚げて帰って来て大きな家を建てたいと思うて一生懸命お商売に精を出した。私はあの時分に五、六万位の借金を支払わなきゃならなかったんですけれどもね、これは一生かかったっちゃ、あの時分の自分の働きでは支払いは出来まいと思うておった。何故って支払う段か、もういうならば毎日毎日がその日暮らしで支払わせてもらう利も払えないのが当たり前なのだ。それをよし払うたところでです、とてもそんなら大きなお家とか建てる事なんて出来る事じゃない。その時分の私の信心というものが、もういうならばです、超常識であった。道徳的でなかった。超道徳であった。ですから場合にはですねぇ、大坪さんは人非人とまで云われた。だから私はその時分に自分で思うておった。そうどころじゃない。私は人非人と思うておった。もうあれは人間じゃなかという訳ですよ。けれども私は確かに人非人じゃない。私はもう人間ではあるけれども、その人間が神へ向かって神化していきよるのだから、もう既に人間じゃないのです。とにかく人が何と云うても神様の仰せには背かれんという生き方であった。それは最愛の家内が云うても、一番大事な両親が云うても、これは聞けなかった。親身に云うてくれる兄弟がいてもそれは聞けなかった。それは素晴らしい。私の事を思うて云ってくれておる事なんだけれども、神様の仰せには背かれなかった。その神様の仰せというのは、いつもです、実に非常識であり非道徳でありといったような例が多かった。ですから信心というものはね、そこをひとつ越えたもの。だから私は、このお広前の建立されたという事でもです、とても私が二十年前の考え方で商売させて頂いても、こんなそれこそ夢にも思わなかったといったようなおかげにはなっていかなかった。そういうところをひとつ信心の修行というか、信心の稽古の中にはそういうものだと、ひとつ分かって頂きたい。だから道理に合うという事は、どこまでも天地の道理である。ですから天地の道理はです、聞かなければ分からん。それもね、只いっぺん聞いたり読んだりだけじゃいけん。もうその時その時に神の叡智(えいち)とでも申しましょうか、神様のいうならば知恵によって導かれるところの生き方でなからなければならないという事であります。
 昨日、豊美から妹に手紙が来とるのを見せて頂いたんですけれども、その手紙の中にね、こういう事を書いております。「他の世界を知りません。私も愛子も同じで自分達の力のなさを感じます。それだけに信心は、私達の生活の全てです。他に道を知りませんから・・・・・」とあります。それこそ大坪家から古川家へと全然家風も違う、生き方も違う中に入ってです、まぁ様々な嫁として又は妻としての難儀を感じておる訳でございましょう。まぁ妹であるところの愛子が、今学院に行っておりますから、あちらで合うて話す事はどういう事かと云うと、とにかく私達は他には何にも出来ん。只、お父さんから信心を頂いておったという事、それ以外にはないという訳です。何にも知らんからですねぇ、他の世界を知らん。いうなら他人の飯を食った事もなかったから分からなかったと、それは私も愛子も同じでございますと。自分達のいわば力のなさ、自分達のこうという自信を藻っておる事がないという事である。それだけに信心は私達の生活の全てだと云うております。もうどんな中にあっても、ここのところが云うておれる分かっておればもう大丈夫だと私は安心しました。
 丁度昼、ここを下がりまして、その前に日田の綾部さん達が山に野いちごを取りに行きましたと云うて箱にいっぱい野いちごを、私は二十何年間ここでこうやって御用させて頂きますけれども、野いちごのお供えて初めてでした。子供の時に取ったりつんだりした覚えはありましたけれどもね。それが見事に箱につめてきれいにしてお供えがあった。それで私はそれを持って勝手の方へ下がらせて頂いた。そしたら公子さんがおばあちゃん宛に愛子さんから手紙が来とりますとこういう。それを私、見せて頂いて驚いた。一生懸命の修行がもう大変おかげを頂いておると、いろいろ実感をこめた手紙でございましたが、その中にあちらで備前焼の小さい花瓶を求めさせて頂いて、毎日私達の部屋に、毎日親先生の控えに花を取り替えさせて頂いておった思いでね、毎日お花をこちらからお供えさして頂いておりますとこういう。今日は野いちごをさせて頂いております。親先生親先生と交いたい、親先生と交流したい、もうそれだけですという事が書いてありました。私はもういつもの事ながら驚きました。私が二十何年間ここで御用させて頂いておるけれども、野いちごのお供えて昨日が初めてでした。それを持って食堂へ行って愛子から来ておるその手紙に親先生と交いたい交流したい、毎日控えの間に茶花風に入れておりました愛子の花をですねぇ、それを毎日お花を入れておりますと、こういう親先生と交流したい交いたいその一念でおかげを頂いておりますと。それはもう本当に交うという事。恐ろしいばかり。なる程、天地が自由になると仰せられるが、そうだなという事を私は実感致しました。
 今日は七十一節を聞いて頂きまして、結局信心とはね、信心とはよし葦の中を流れる清水かなと、こういうこれは、おかげを頂かせて頂けれる心の状態なんです。よしとか葦とかいう事じゃない、あれじゃないこれじゃない自分自身が清くそこを流れていきゃあいい、そういう心の状態をです、求めての信心。いわゆる和賀心を求めての信心、そういう信心がです、私は段々自分の心の中に頂けていくという事の有り難さ、そういう信心の稽古をです、私共が只、常識的な信心の稽古では駄目だといわば光昭の例をとって申しました。普通からいうたら、そげな便利の悪いそげな事より、まちったましな修行の方がありはしないかというのではなくてです、又やぼったく見えるけれども、信心な頭じゃないそろばんの上からはじき出されるものではない。五と五と足すのが十になるのが、まぁ普通の常識的なものであるならばです、信心は五と五と足して五十にも百にもなるような事の為なのだから、人間の浅い知恵での信心修行では駄目。そこを例えて云うなら、神様が私に求めて下さる修行を受けていく、成り行きを大事にしていくというようなおかげを頂かせて頂く為に、少しは理不尽なようではあるけれども、ある一つの徹したもの、一心と例えば定めさせて頂いた事をです、やってやってやりぬくという信心、そういう姿勢が必要だといよいよ信心が分かれば分かる程です、いよいよ自分の無力さかげんというものが分かる。いわゆる障子一重がままならぬ人の身である事が分かる。そこからです、信心は私共の生活の全てだと、いわゆる寝ても覚めても金光様であり商売をさせて頂いても、その商売をさせて頂くさせて頂き方がです、今自分が思っておる事、自分が行うておる生き方で果たしてよいのかと今を思うてみる事。今月今日只今のところをです、自分の足元を本気で見てみる事。こういう考え方では神様は喜んで下さらんと思う事があったら、そこをその場で改めていくという生き方。そこからです、神様と交流する道が開けてくる。ですからもういつもです、神様と交流したい神様と交いたい、いうならお取次を頂かせて頂ける金光様との交流、親先生との交流、そこに思いいっぱい真心いっぱいという事が云えるのです。それを愛子の例をもって申しました。だからね、親先生と交流するとか神様と交流するという事は、元がかかるとか時間がかかるという事でもないですねえ。いわゆる真心ひとつと云われるのはそこなのです。信心させて頂いてどこを目指しとさせて頂くか、それこそよしあしは云わずにそこを清く流れていかれる、そこでいつもよい方に悪い方にと傾くというのではなくて、とにかく自分自身の足元を見つめての生き方が出来ておれば、自ずと頂けるのが安心である。そういう状態を目指していくという事。信心のいわば要諦仙涯さんならずともです、私共そこんところにひとつ極めた信心は、ここに極まったという思いで精進していかなければならない。
 自分の心の中にしだが密生しておる。おかげの受けられない心。こういう心は神様が好きなさらん心。それをです、自分流儀にいわずに教えというものを対照として神様の知恵をもって、自分の心の中を見せて頂かなければです、自分よがりに悪かとこでんよかとこのごと思うとる、人間というものは。神様の知恵による御教えによって、そのよしあしを、自分の心の中をおかげの受けられる状態を作っていくという事。そして神様と交流していくところの喜びとか楽しみというものをです、いわゆる真心いっぱいとでも申しましょうか。そういう気持ちで信心の稽古をさせて頂く、続けさせて頂く。そういう稽古を、ここへは信心の稽古に来る所とおっしゃるのは、そういう稽古を皆さんして帰っておられるのですから、自分のおかげは我が家で受けよというのを信心そしておかげと直結するのではなくてです、結局信心はまず真心なのです。信心の稽古というのは、そういうおかげを受けられる心の状態、自分の心からいわば、しだを取り除かせて頂く生き方、その生き方をです、例えば私共の子供三人の例をもってね、聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。